伝説の戦国武将 島津義弘
「島津」の名を全国へ轟かせた戦国武将
1535年に、15代島津本家当主・島津貴久の次男として現在の日置市に生まれました。幼いころから武芸に秀で、若くして数多くの戦で活躍見せます。木崎原の戦いで日向国(宮崎県)伊東氏を破り、豊後国(大分県)の大友氏との合戦でも活躍。豊臣政権への降伏後、島津家の代表として、文禄・慶長の役にも従軍します。
関ケ原の闘いで「敵中突破」を敢行して薩摩藩の基礎を築いたことはあまりにも有名なエピソードです。
「関ケ原合戦図屏風(部分)」 関ケ原町蔵
義弘は家康の本陣へ向け駆けだした
1600年、徳川家康に味方する東軍と反徳川派の西軍が美濃国(現在の岐阜県)関ケ原で対峙。島津軍は西軍に参加するも、勝敗は半日を待たず東軍の圧勝で決着します。約1500名と少ない兵士の島津軍は戦場へ取り残され周囲を敵に囲まれていました。決断を迫られた義弘がとった行動は、敵の本陣を突っ切り撤退するという大胆なものでした。甥の島津豊久など多くの家臣を失いながらも、命からがら故郷薩摩へと逃げ延びた兵士はわずか数十名でした。
「薩摩日置鉄砲隊」 日置市
火縄銃を積極的に活用
火縄銃は1540年代に現在の鹿児島県・種子島を訪れたポルトガル人によって伝わったといいます。「種子島」の異名をもつ火縄銃は、島津家も極めて早い段階で手に入れることができたため、本格的な実践での使用も積極的に行われたとされます。関ケ原の合戦でも使われ、相手に大きな損害を与えました。島津の銃撃で、徳川四天王の井伊直政が負傷、本田忠勝の愛馬も撃たれています。火縄銃を採り入れ、効果的に用いたことで薩摩藩の礎が築かれました。
「猫神絵馬」 仙巌園
朝鮮出兵に猫を連れて行った義弘
島津義弘は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に、7匹の猫を連れていったというエピソードがあります。猫の瞳孔の開き具合を見て「時」を知るためだったと考えられています。
島津家と猫とのつながりを示す場所として、島津家の別邸・仙巌園には、日本で唯一とされる猫を祀る神社があります。これは当初、鹿児島(鶴丸)城、北の護摩所にあったものを、明治初期に仙巌園に移設したとされています。
出典:「加治木島津家文書」より
意外にもロマンチストの一面も
戦に奔走する戦国武将のイメージが強い義弘ですが、妻「宰相夫人」に宛てた手紙が数多く残っており、実は愛妻家だったことが垣間見えます。
朝鮮からの手紙には「今夜もそなたを夢にまさしくミまいらせ(今夜もあなたを夢で見てしまったよ)」、「くハしき文共さいさいをこせ可給候(ちょっとしたことでも手紙で知らせてください)」といったことも書かれています。
意外とロマンチストだったのかもしれませんね。
毎年10月に行われる伝統行事
島津義弘は、元和5年(1619年)に85歳で生涯を閉じました。後年、城下の武士たちが義弘たちを偲んで、彼の菩提寺・妙円寺に参詣するようになります。これが鹿児島三大行事の1つ「妙円寺詣り」のはじまりです。幕末には、西郷隆盛や大久保利通も妙円寺詣りに参加しています。
明治時代の廃仏毀釈により妙円寺は壊され、義弘を祀る徳重神社が跡地に建てられます。後に神社の近くに妙円寺も再興。毎年10月には大勢の武者行列がこの地を訪れます。