ひおきPR武将隊メンバー紹介



島津貴久の次男として生まれ、若くして数多くの戦で活躍を見せる。豊臣政権に降伏後、島津家の代表となり、朝鮮出兵にも従軍。関ケ原の闘いで「敵中突破」を敢行して薩摩藩の基礎を築いたことはあまりにも有名。


島津貴久の長男で本家十六代。父から受け継いで三州統一を果たす。さらに耳川の戦いで豊後国の大友氏に勝利した後、弟たちと九州統一を目指すも豊臣秀吉に敗れ降伏。関ケ原の戦いの後は徳川との和平交渉にあたる。




貴久の三男で日置島津家初代。父や兄のもとで合戦に参加して武功を挙げる。豊臣政権との戦いで養子・忠隣を失ったこともあり降伏を拒否。後に島津家で豊臣政権に反発する一揆がおこった際、その責任を負い自害する。


貴久の四男で永吉島津家初代。沖田畷の戦いで、肥前国の龍造寺隆信を討ち取り、戸次川の戦いでは豊臣先発軍を撃破して土佐国の長宗我部信親らを敗死させるなど数々の武功を挙げる。豊臣政権に降伏した後、急死を遂げる。




島津家久の長男で永吉島津家二代。北条氏との戦いや朝鮮出兵にも従軍。関ケ原の戦いでは伯父・義弘とともに参加。味方が総崩れとなった時に、義弘を励まして撤退を進言し、自らは命を散らすことになった。


島津忠良の息子で本家十五代。本家家臣団の要請で本家を相続するも、他の分家の反発にあう。以後、十年以上の内乱を経て島津家をまとめ上げる。また、キリスト教を伝えるために訪れたザビエルに布教を許可した。




「日新公」で知られる伊作島津家と島津相州家の主。島津分家の中でも力をつけ、島津本家を支えた。息子の貴久とともに本家家督相続をめぐる争いに終止符を打ち、「日新公いろは歌」を作り、武士の教育に大きな影響を与えた人物。


義弘は妻・実窓夫人(宰相殿)と恋愛を経て結ばれたと言われることもあって、とても仲が良く、二人の間で交わされた多くの手紙が残されている。彼女の死後、妙円寺の隣にあった芳真軒が菩提寺となった。




父は京都から下向して島津家に仕えた畠山頼国。若くして出家し、紀伊国根来寺で修行を積む。のちに島津義弘の家老となり、関ヶ原の戦いに参加。敗北決定後、敵中突破の際に義弘の羽織を借り、義弘の身代わりとなり戦死した。


薩摩より関ケ原の義弘の元へ駆けつけ、窮地の義弘を救う。敗走中、資金がないときも、食糧をもらった村では太刀の鞘を代金として支払った。後に出水地頭・家老となり、精鋭「出水兵児(へこ)」を育てた。別名は山田昌巌(しょうがん)。




島津義久のもとで数々の戦功をあげ、関ケ原の戦いでも勇壮に戦うが、義弘とはぐれ敵方に捕らえられる。それでも生きて薩摩に戻ると、義弘は再会できたことを大変喜んだという。禰寝家は後に小松に改姓し、その当主には小松帯刀がいる。



島津貴久の次男として生まれ、若くして数多くの戦で活躍を見せる。豊臣政権に降伏後、島津家の代表となり、朝鮮出兵にも従軍。関ケ原の闘いで「敵中突破」を敢行して薩摩藩の基礎を築いたことはあまりにも有名。



島津貴久の長男で本家十六代。父から受け継いで三州統一を果たす。さらに耳川の戦いで豊後国の大友氏に勝利した後、弟たちと九州統一を目指すも豊臣秀吉に敗れ降伏。関ケ原の戦いの後は豊臣政権との和平交渉にあたる。



貴久の三男で日置島津家初代。父や兄のもとで合戦に参加して武功を挙げる。豊臣政権との戦いで養子・忠隣を失ったこともあり降伏を拒否。後に島津家で豊臣政権に反発する一揆がおこった際、その責任を負い自害する。



貴久の四男で永吉島津家初代。沖田畷の戦いで、肥前国の龍造寺隆信を討ち取り、戸次川の戦いでは豊臣先発軍を撃破して土佐国の長宗我部信親らを敗死させるなど数々の武功を挙げる。豊臣政権に降伏した後、急死を遂げる。



島津家久の長男で永吉島津家二代。北条氏との戦いや朝鮮出兵にも従軍。関ケ原の戦いでは伯父・義弘とともに参加。味方が総崩れとなった時に、義弘を励まして撤退を進言し、自らは命を散らすことになった。



島津忠良の息子で本家十五代。本家家臣団の要請で本家を相続するも、他の分家の反発にあう。以後、十年以上の内乱を経て島津家をまとめ上げる。また、キリスト教を伝えるために訪れたザビエルに布教を許可した。



「日新公」で知られる伊作島津家と島津相州家の主。島津分家の中でも力をつけ、島津本家を支えた。息子の貴久とともに本家家督相続をめぐる争いに終止符を打ち、「日新公いろは歌」を作り、武士の教育に大きな影響を与えた人物。



義弘は妻・実窓夫人(宰相殿)と恋愛を経て結ばれたと言われることもあって、とても仲が良く、二人の間で交わされた多くの手紙が残されている。彼女の死後、妙円寺の隣にあった芳真軒が菩提寺となった。



父は京都から下向して島津家に仕えた畠山頼国。若くして出家し、紀伊国根来寺で修行を積む。のちに島津義弘の家老となり、関ヶ原の戦いに参加。敗北決定後、敵中突破の際に義弘の羽織を借り、義弘の身代わりとなり戦死した。



薩摩より関ケ原の義弘の元へ駆けつけ、窮地の義弘を救う。敗走中、資金がないときも、食糧をもらった村では太刀の鞘を代金として支払った。後に出水地頭・家老となり、精鋭「出水兵児(へこ)」を育てた。別名は山田昌巌(しょうがん)。



島津義久のもとで数々の戦功をあげ、関ケ原の戦いでも勇壮に戦うが、義弘とはぐれ敵方に捕らえられる。それでも生きて薩摩に戻ると、義弘は再会できたことを大変喜んだという。禰寝家は後に小松に改姓し、その当主には小松帯刀がいる。